1997年は象徴的な年です。バブル経済が崩壊して山一讃券や拓銀が破綻し、年間自殺者がこの年から3万人を超えつづけます。その2年前の95年1月に阪神淡路大震災3月にオウム真理教による地下鉄サリン事件が起き、バブルのときに作り出された漠然とした自信、「世界の経済大国である」という自信が97
年には崩れていきました。これと連動して、90年の湾岸戦争で、日本が自衛隊を派遣しなかったことに対して米国からの対日圧力が強まり、米政府から日本政府に対して「年次経済改革要望書」という形で非常に強烈な要求が突きつけられ、雇用の法的システムも変えられていくわけです。
97年は昨年(2010年)に匹敵するような最悪の就職氷河期となりました。この年に卒業を迎えた大学生は就職できていません。これまでの雇用体制が全部崩されていく中で、つくられたばかりの派遣や非正規雇用が「フリーター」などと呼称され、雇用の「多様化」が肯定されていきました。こうした一連の事態が「自己責任」という言葉で一括されていったのです。
一方では、ホリエモンのように規制緩和された金融市場で儲ける人間が生まれました。2001年に小泉政権が誕生して以後「この世界でのし上がっていけたのは本人の努力の結果で、そうでなかった人は努力が足りなかったからだ」という「自己責任」論を勝ち組と負け組の分割に使う社会的風潮がつくりだされました。そして先の04年イラク人質事件を契機にすべての個人に「自己責任」が問われるようになりました。マスメディアを通して、自分たちが向かうべき本当の敵にたちむかわずに、別のところに攻撃の矛先を向けるようにしむけられていく象徴的な言葉として「自己責任」という言葉が意図的に使われてきたのです。
幻想を打ち破り
国家が個人に対して「目己責任」という言葉を使うのは、「国外で国民が生命の危険にさらされても政府は責任を取らない」「正規労働につけず、生活が成り立たなくても、政府は生存権の保障をしない」という、百パーセント憲法25条を蹂躙すると宣言していることに等しいのです。「小さな政府」や「規制緩和」と「目己責任」論はセットになった新自由主義の人間破壊の思想なのです。マスメディアは明確な概念規定もなしに「自己責任」という言葉を流通させ、国や自治体が憲法を踏みにじって、社会的な保障を国民から奪っている現実を見えなくさせているのです。現実の人間は、母親の胎内から生まれ出たその瞬間からケアをしてくれる大人と出会い、ケアを受けて生きていけるわけです。それぞれの子どもの時からの来歴をたどれば、多くの人たちとの社会的かかわりが生存を保障していたのです。そもそも、自立とは社会的な関係性の中でしかありえません。私たち自身が二人で生きているという幻想」を突き破り、この間の新自由主義的「自己責任」論が崩してしまった社会的関係性を新しく創りなおす必要があるのではないでしょうか。