16日、映画「ナイチンゲール『看護覚え書』より」の上映と記念講演会が札幌コンベンションセンターで行われ、道内の医療機関や看護学校から看護師・学生など630人が参加しました。講演会での川嶋みどりさん(日本赤十字客員教授)のお話しから、その一部を紹介します。(要約−編集部)
私は看護師歴がちょうど60年になります。看護の現場で実際に起こっている問題と、いま問われている「看護の原点」についてお話します。
患者に触れなくなっている
10数年前から「リスクマネージメント」というシステムが出てきました。これは、アメリカの損害保険会社があまりにも多い訴訟に対応するために作り、日本にも入ってきたものです。私は、リスクマネージメントに名を借りた患者の尊厳軽視ということがあるのではないかと感じています。たとえば、看護現場では人間の目に依存するよりも、機械に依存した"確認"がされています。私の息子が東京で入院・手術をしました。手術を終え、ICUで朦朧としている息子に、看護師が何度も名前を呼びかけました。息子がうっすら目をあけて呼びかけに応えると、看護師は「お名前をおっしゃってください」。名前を言うと、輸液のボトルに書いてある名前を確認して、それを機械に入力し、やっと輸液が始まりました。本人確認は大切だと思います。しかし、意識檬朧としている患者にまで行われていることに驚きました。
コンビニの商品を流通させるような工業的な発想を無批判・無自覚に受け入れ、相手が人間だということを忘れてしまっています。医師も看護師も患者に触れなくなりました。3本指で脈をみる看護師はほとんどいなくなり、自動血圧計を巻いてデジタルの数字を見て済ませています。患者が、胸が苦しいと訴えたとき、「どこが苦しいの」と言って胸を開けてみるのではなく、私が「洗濯バサミ」と呼んでいるパルスオキシメーターを指に挟み、「97ですから大丈夫です」とやっている。これが今の看護現場の実態です。
可能性の追求
私はこれまで"看護の可能性"を追求してきました。大変だったからこそ看護師を続けてきたと思います。「これで良い」と思える日はなく、今日はダメ、明日もダメとやっているうちに
60年が経ちました。それでも看護は素晴らしく、困難を乗り越えた喜びは自分のものです。また生まれ変わったとしても看護師をしたいと思えるのです。しかし、患者の立場となると話は違ってきます。